コラム

[2012/05/07] 第46回 判断

判断する

後になって悔やんでも、仕方のないことだ。しかし、どうしてあの時にあのような判断をしたのだろうかと、後悔することがある。時計の針を巻き戻せるならばどんなに良いのにと、そう痛感させられることがある。

組織の成長は、人材の成長そのものだ。経営者はその人を受け入れた時点で、その人が育った環境や人格も含めた、人生のすべてを背負うことに等しいと考えている。しかし、その一方で会社という人格を成長させ、存続させなければならないとの使命を背負う。

人材の採用や登用の場面では、適切な判断を求められるとともに判断に苦慮することが数多く存在する。優先すべきものは何か、大切にすべきものは何かを見極める、そんな能力が判断には求められる。

直面する現実

優秀だと思い込んだ外国人(=われわれとは異なった環境で育った人)を連れてきては、日本では日本語で話せ、食事をするなら箸で食べろ。挙句の果てに、日本の情緒や文化を理解して仕事をしろと要求することは、ない物ねだりであり、目的に対する手段の選択が誤っていると理解すべきなのかもしれない。

異文化を否定している訳ではない。育った環境や文化の違いの障壁は、見上げるほどの高さでそびえ立つ。何を言っても、言葉を翻訳してわかりやすく伝えようとも、感じない、伝わらない。

誰しもが成長する機会を持つと同時にそれを要求する権利もある。しかし、成長させるための環境は、方向性や指導も含めてさまざまな観点で整備したとしても、どのように成長したいかがその人自身にないあるいは持てなければ、互いに成長しないどころか不幸になるだけだ。周りが決めることでも選択することでもなく、誰かに言われたからでもなく、全てはその人自身が覚悟して決めることだ。

共有すべきは、その人自身と会社および経営者の哲学である。それらが一致している限りはきっと同じ志で成長していけるのであり、費やす時間が長くても、決して無駄な時間とはならない。しかし、その状態を傍観するまたは静観するだけでは、何も変わらないどころか周囲に悪影響を及ぼすなどの弊害が発生するのも現実である。

判断する勇気

その手段(その人)の選択の過ちを早めに判断しないと、その人自身をつぶしてしまうことになる。そもそもの価値観が異なっているのであり、その人の生き方や人生観を会社側の都合で押し付ける訳にはいかない。

大きな会社(肥大化した会社)や体質改善が難しいまたはできない会社は、生かさず殺さず、あるいは成長せずともやっていけた良い時代(悪しき時代)があった。そんなぬるま湯の中で、欲求もないし思い入れもなく、自分のことに興味はあるが他人や周囲には興味がない。自らの欲求がないために自分では何も決められない、よって相手や周りへの依存度が高くなる。そんな生活を日々過ごしている人たちと、何を共有すれば良いのかと考えあぐねる。

諦めると言うことではなく、適切な判断のタイミングがあると言うことだ。

自らの進路や退路は、本来は自らが考え判断すべきであり、ましてや退路を周囲から求められるほど、無能なことはない。 <s.o>